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正しく楽しく美味しく食べるために 管理栄養士の変革を目指して
大学の講師や会社員を経て、2021年3月に「eatas株式会社」を設立した手嶋英津子さん。管理栄養士をもっと身近に感じてもらうこと、そして管理栄養士自身の価値を高めることを目指しています。テクノロジーを活用しながら「楽しく美味しく食べる」ことで、健康になることを当たり前にするために—。目標に突き進む手嶋さんの歩み、そしてこれからについてお話を伺いました。
「行動を変容させる」管理栄養士に
——食に興味を持ったきっかけは何ですか?
高校生の頃、プロ野球選手が好きで「結婚するにはどうしたらいいんだろう?」と考えていました。見ていた選手名鑑に管理栄養士について書いてあって。当時、栄養系に強い大学の附属高校に通っていたので、「これならイケる!」と(笑)。真剣に管理栄養士を目指していたんですが、大学に行って一度、その気持ちを忘れちゃうんですよね…
——何があったんですか?
先生に「スポーツ栄養の道に進むならアメリカに行かないと無理だよ」と言われて、「じゃあ、いいや」って。目標を失っちゃって、コンビニと飲食店のバイトに明け暮れました。
——管理栄養士への気持ちが再燃したのは?
大学で栄養士の資格と家庭科の教員免許を取得後、高校で家庭科の教員をしていました。でも被服や福祉が担当で、食の授業を担当することがなくて。「あれ? 私の専門って何だっけ?」と思いました。食が専門のはずなのにやれないのが引っかかっていて。「やっぱり管理栄養士になりたい」と思い直し、青年海外協力隊を受けました。
—青年海外協力隊っ⁉︎ なぜ?
海外で栄養のことをやってみたくて。でも、被服で受かって…。「やはり専門を磨かないと…」と思い知りました。それで、母校の大学の先生に相談したら、「助手として勉強しない?」と言っていただけて。結局協力隊には行かず、助手になりました。
—なるほど。助手をしながら管理栄養士への道を再スタートさせたんですね。
1年目で資格を取得して、管理栄養士を目指す学生たちの教育を担当しました。中でも、生活習慣病の方の栄養指導をする栄養クリニックの経験が後に生きたと思います。
—どんなことが生きたんですか?
人の食事が変わると体型も変わるし、血液の数値も変わることを目の当たりにしたのは大きかったです。食ってすごくプライベートな部分にも踏み込むので、食事からその人の生活がいろいろ見える。「何か体重が増えたな」と思ったら孫を預かっていて、普段と環境が変わっていたとか。管理栄養士が指導に当たる時は良い方に変わってもらわないといけないので、知識を伝えるだけでなく、「行動を変容させるには?」と考えてきたのが今の仕事につながっていると思います。
食育アプリ開発から広がった世界
—管理栄養士のやりがいを見出した感じですね。ただ、助手をやめて一度東京に行かれて、再び福岡へ戻られていますよね?
一度は東京に住みたいと思っていたんです。2年間、給食の献立を作る会社に勤めました。この経験をいつか教育に生かしたいと思っていた時、ちょうど前職の大学の講師募集があったので、福岡に戻りました。
—お帰りなさい(笑)。そして、再び教育現場に戻られて。
栄養教諭を養成する科目を担当しました。ある時、講演で「これからの教育はICT教育が広がる」という話を聞いて、「それだ!」とビビッときました。それで、食育アプリの開発をしようと。ちょうど「アプリを作りたい」という情報工学の先生に出会い、私は「食のアプリが作りたい」と意見が合って、一緒に作ることになりました。
—運命を引き寄せていますね! 小学生向けの食育アプリにしたのはなぜですか?
栄養教諭の勤務先は小学校がメインなので、タブレットが普及された時に教材としてどういうものがあったらいいかを考えました。教育実習で学生が小学校へ行くと、紙で食材カードなどを手作りしていて「大変だなぁ」と感じていた。これをアプリで作れば準備も楽になるし、選ぶカードも増やせるし、いいんじゃないかと思って。
—学生の負担軽減から着想を得たんですね!
2016年9月に「食育の授業」として、アプリを世に出しました。2018年にはもう1つ新しいアプリを出して。すると2019年に、Appleのテクノロジーを活用して教育現場の変革に取り組むパイオニアたちが選出される「Apple Distinguished Educator」に選ばれて。アジア地域の研修でオーストラリアに行き、世界が変わりました。それまで、実際の教育現場ではアプリは受け入れられにくいものだったけれど、Appleが祝福、受け入れてくれたことで、「もっとやってやろう」と思うようになりました。
—その研修は、手嶋さんに大きな影響を与えたんですね。
研修で、Appleに認定された方々の裏側を知ることができたんです。妬みとか嫌がらせを受けながらも、教育に必要だからと熱い気持ちで取り組んでいる人たちが集合していた。同じような経験があったので、「自分だけじゃない」と感じられた。逆境に負けない人たちに出会えて勇気づけられたし、意欲が湧きました。アプリって開発段階ではどう広がるかスケールが見えないけど、信じてやった先に広がる世界を体験することができました。
—その後、アプリ「食育の授業」の反応はいかがでしたか?
2020年のコロナ禍で激変しました。オンライン授業で一気にタブレットが普及して。2020年5月に12万ダウンロードだったのが、11月には24万、翌12月には36万まで増えました。
—劇的な変化! でも、そのアプリが大当たりする前に大学を退職されていますよね。
アプリを作った時、すごく楽しかったんです。「社会に受け入れられることをもっとやってみたいな」と。管理栄養士の世界は厳しいことも多い。もっとみんなが楽しく働けるようになればと思い、2020年3月で大学を辞め、起業を決断しました。アプリも作りたかったので、エンジニアの人と直接話ができるようプログラミングの学校にも通って。1年間の起業準備を経て、2021年3月に『eatas株式会社』を創業しました。
公私とも人に支えられてある今
—『eatas(イータス)』と名付けた思いは?
プログラミングの学校の同期が考えてくれました。「eat」に「+」を付けているので、食の価値を高めること、そして管理栄養士にもプラスの価値を、という思いを込めています。
—ロゴも分かりやすいし、イメージしやすい社名ですね! 創業して2年半、これまで順調でしたか?
1年目も2年目も厳しかったです。でも1年目は、エプソン主催のITエンジニアやデザイナーなどが集ってチームを作り、特定のテーマに対して意見やアイデアを出し合う「ハッカソン」に出場して準優勝して、サポートを受けることができました。2年目は資金が尽きそうになりましたが、2022年の10月に女性起業家向けのプログラムに受かって出資を受けることができました。
—すごい! これもまた引き寄せていますね!
本当に運が良かったです。自分たちの力だけではここまで来ることができなかった。メンバーも2人から4人に増えましたが、おかげで何とか乗り切れました。実は、過去に死にかけたこともあって、その時も人に救われたんです。
—えっ、死にかけた?
28歳くらいの時、悪性腫瘍ができて出血しちゃって。輸血で助かりましたが、その前にもう一回出血していたら無理だったようです。ホント人に助けられています。入院中はご飯が食べられなかったので、「食べられる幸せ」も強く感じました。なのに、今はダイエットや健康のために制限や体に負担をかけ、食事を楽しめなくなっている人が多い。正しい知識さえあれば、そんなことしなくていいのに。管理栄養士はその道のプロなので、もっと身近な存在になれば変わるのではと。管理栄養士もやりがいや意義が感じられて、WIN-WINの関係になれますよね。
テクノロジーを駆使して管理栄養士をもっと身近に
—すべての経験が、手嶋さんの仕事につながっているんですね。
今年4月には、管理栄養士に楽しく働いてもらったり、価値を高めたりしたくてコミュニティを作りました。2回ほど募集して、今は全国から50人弱くらい登録してもらっています。オンラインで仕事を依頼しているのですが、新たな働く場所を作りたいという思いが形になって嬉しいです。ジムに通う方の指導やオンラインの栄養相談を受けたりするほか、コラムを書いてもらったりもしています。テクノロジーを活用して、もっと管理栄養士を身近にしていきたいです。
—このコミュニティのおかげで仕事も広がる感じがします。
そうですね。東京のある方は子どもが3人いらっしゃって、5年くらい社会復帰できていなかった。管理栄養士は職場にだいたい1人で、代わりがきかない仕事だから戻れていないんです。でも、このコミュニティに入って、「久しぶりに仕事ができて嬉しい」と言ってくれました。
—まさに作ったかいがありましたね。
本当にそうです。諦めていた方が、子どもがいながらでも在宅で仕事ができた。仕事をしていないと保育園に預けられないというのも、このコミュニティで仕事をしているので預けられるようになったそうです。
—会社名にも込めた「管理栄養士の価値を高める」想いが、実現しつつありますね。あらためて、大学卒業後からここまでのご自身の歩みをどう感じられますか?
本当にいろいろあったけど、強く思うのは、1年後には想像もしていない未来が待っているということ。未来は思い通りにはならないけど、きつい時でも1年後は同じ事は続いていないし、何かしら状況は変わって今よりは明るいだろうと。それを社会人1年目の時に感じたんですよね。どんなに大変でも、人に支えられながら何とかやってこれた。だから、今後もその気持ちは忘れずにやっていきたいと思います。
(2023年7月インタビュー)
【手嶋英津子さん】
福岡市出身。管理栄養士。高校の家庭科教諭や中村学園大学栄養科学部助手、民間企業などの勤務を経て、西南女学院大学保健福祉学部栄養学科の講師に。その傍ら、小学生用食育アプリ(『食育の授業-朝ごはん編-』『食育の授業-おやつ編-』)を開発。このアプリの取り組みが、食育分野として初めてAppleより教育分野イノベーター「Apple Distinguished Educator」として認定される。2021年、大学講師を辞めて起業。月間1500食のレシピを管理・作成していた経験から、テーマに合わせたレシピ開発が得意。子どもや保護者向けの食育講座、先生向けの食育研修など、講演の実績も多数ある。